神戸判決の概要

1 残留孤児が生じた経緯
 政府は、満州の支配体制を確立するために、昭和7年から満州移民を開始した。一方、開拓民が唯一頼りにしていた関東軍は、昭和18年以降、戦局悪化によって、満州以外の地に移され、弱体化していた。そして、昭和20年春、ソ連軍の満州侵攻が決定的となると、政府は、満州を戦場とする方針を決めた。しかし、政府は、開拓民に対し、こうした情報を伝えず、また、開拓民を避難させることもしなかった。政府は、昭和20年7月には、開拓民の青壮年男子を「根こそぎ動員」した。その結果、開拓民は、高齢者、女性と子供だけになってしまった。
 昭和20年8月、突然ソ連軍が満州に侵攻し、開拓民は、極度の混乱の中で難民となった。彼らは、暖房も食料もなく、衛生状態も悪い避難所で、極寒の越冬生活をしなければならなかった。多くの日本人の子弟は、避難所に辿り着くまでに、また、避難所生活中に、親兄弟と死別・離別し、生き残る唯一の方法として、中国人の養子とならざるをえなかった。その結果、彼らは、帰国できないままとなり、残留孤児となった。

2 残留孤児の帰国に向けた政府の責任について
 非戦闘員である在満邦人を無防備なまま放置した戦前の政策は、無慈悲なものというほかなかった。憲法の理念を国政のよりどころとしなければならない戦後の政府には、こうした無慈悲な政策によって生まれた残留孤児を救わなければならない強い政治的な責任があった。そして、政府は、残留孤児が中国で生きていることを知っていたのだから、あらためてその消息を確かめ、早期に帰国させる政治的責任を負っていた。そして、日中の国交が正常化してからは、政府が、残留孤児の救済と矛盾する行為をしてはならず、そのような行為をした場合には、それは違法行為である。具体的には、
 @ 残留孤児の入国時に留守家族の身元保証を要求する措置、
 A 残留孤児が帰国旅費の支給を求める際、その支給申請を留守家族が残留孤児の戸籍勝本を提出して
   行うとした措置、
 B 身元判明孤児について、特別身元引受人の身元保証などを求める措置は、いずれも、残留孤児の帰
   国する権利を侵害する違法行為であり、そのために帰国が遅れた場合には、政府は賠償しなければ
   ならない。

3 帰国孤児の自立支援に向けた政府の責任について
 政府が残留孤児の帰国を大幅に遅らせた結果、多くの残留孤児は、帰国時には、日本社会に適応することが難しい年齢となっていた。一方、北朝鮮による拉致被害者は、帰国後5年間は高水準の給付金を受けるなどして余裕をもって帰国後の生活を送ることができるようになっていることからすると、政府には、残留孤児についても、帰国後5年間は、日本語の習得などの支援を行い、かつ、それらにじっくりと取り組むことができるよう支援しなければならなかったといえる。にもかかわらず、残留孤児に対する支援策は、実際には、たいへん不十分であり、残留孤児は、日本語の能力などが不十分なまま、強引に就職を迫られたりした。このように、政府は、残留孤児の自立を支授する義務に違反していたといえ、賠償しなければならない。

                                        2006年12月19日
                              中国「残留孤児」国賠訴訟兵庫弁護団