田中義祐さんの証言
田中義祐さんは1932(昭和7)年9月16日大阪生まれた。現在87歳です。
私は長年大工の仕事をしていたが、最近は目が悪いので医者にかかっている。車の免許を返し、5年前に仕事もやめた。仕事をやめると、待ってましたとばかりに病気が出てきた。糖尿病になり、癌にもなり内視鏡手術を受けた。1943年(昭和18年)、満州へ行ったときは小学校5年生だった。以前は当時のことをよく覚えていたが、この頃は思い出せないことが多い。開拓団の人たちに会うことがあれば思い出せるが、足が悪くなり、毎年1回の天王寺・一心寺での法要にもしばらく行っていない。
満 州へ
私たちは大阪の吹田に住んでいた。父は召集され何度も軍隊に行っていた。職業軍人ではなかったが、帰ってくるとまた行くので、いっしょに暮らしたことがあまりないように思う。行き先は満州や支那だった。親父に手紙を書いたことがある。あて先は中支とか北支とか、満州国、牡丹江などもあった。時々家に帰って来ていたが仕事はしてないようだった。父のもとの仕事は箱屋と言って、木製の冷蔵庫を作る職人だった。
大阪から出た昇平開拓団に加わり満州に行った。父は軍隊で中国にいた時から、満州に行くのを決めていたようで、枚方の東、私市(きさいち)に開拓団訓練所があり、しばらく訓練を受けていた。
満州に行ったのは家族7人、父、母、姉、私、弟3人だった。親父は大工道具を全部持って行った。ところが、行ってからすぐに肺炎で死んだ。その後、残った大工道具を私が引っ張り出して使って遊んでいた。母は父がいないのだから自由に使えと言ってくれ、鑿(のみ)も鋸(のこぎり)も切れなくなったら次の物を出して、使い捨てのようにして使った。開拓団の人は引揚げて日本に帰るまでに、半分くらい死んだ。
開拓村の暮らし
開拓団の入植場所はハルビンの西、チチハルとの間の濱江省肇州県昇平鎮で、私たちの家族は本部から6kmくらいのところに住んでいた。開拓団の村の中を警備道路というのが通っていた。当時は広い道路だと思っていた。その道路の両側には2mくらいの壕が掘ってあり、雨が降ったときには水がそこに流れ込むようになっていた。学校へはその道路を通って行き、その道路以外のところは通るなといわれていた。道路脇にはコウリャンなどが生えていて、中に入ると行方が分らなくなることがあるからだった。この道路は名前からして軍が管理していたのだと思う。まわりに山は無く、大平原で道路は大同鎮まで真っすぐに続いていた。開拓団の部落と部落の間は離れていた。農地は開拓団の人が開拓したのではなく、中国人から買い取ったのだと思う。私らが行った時すでに畑だった。作物は麦、粟、トウモロコシ、大豆だった。さつま芋、米はできない土地だった。学校には広い農場があり麦刈りをやらされた。種まきは大人がした。種まきのときは大きな袋を肩にかけ、歩きながら種が先から出るようになっている棒を、ポンポン叩き、ポロポロまいていた。広いので、一畝行って帰ったら1時間はかかった。水まきなどはせず、雨水だけが頼りだった。農作業は共同で母も加わっていた。開拓団の人は転業者ばかりで農業経験者は1人もいず、農業指導員の指導で農作業をしていた。
鉄道駅のある安達に避難
避難命令が出た時の結集場所は肇州県公署だった。道路が1本あるだけで、そこまでは遠く、鉄道からも離れるので、鉄道駅のある安達に逃げたのだと後で聞いた。
安達の近くには日本の開拓団や青少年義勇軍の開拓団もいた。途中でなにかあった時でもと考え、安逹に向かったのだろう。村から安達に避難したとき、道路の泥が子供の膝の上まであった。大雨で歩けなくなり、途中、空家になっていた義勇軍の宿舎に泊まってから安達に出た。その時、夜に盗られたのか、馬車の荷物がなくなった。そこからは歩いて安達に向かった
出発してから安達に着くまでは激しい雨が続いた。夜は冷えた。逃げるときには家族で大人は母親1人だったが、いつも集団で動いたので父がいなくても食べさせてもらえた。安達に着いて入ったのは馬小屋だった。
この当時、鉄道駅がある町に馬車で農産物を運んでいたので、安達の街には馬や御者が集まる宿があった。戦争が始まる前から、この街に日本人が来ていた関係もあり、知っている人がいたので、ここを借りたらしい。安達の馬小屋での避難生活は12月まで続いた。それから、列車に乗る許可が下り、貨物列車でハルビンに向かった。それまでにロシア兵による略奪があったが、現地人からの攻撃や略奪などはなかった。しかし病気で亡くなった人は大勢いた。ロシア兵の略奪はハルビンに出てからも続いた。
ハルビン花園小学校へ到着
12月中ごろ、ハルビンに着いた。収容された場所は花園小学校だった。ここには他の開拓団の人も大勢いた。集団ごとに教室へ入った。大きな3階建てのレンガ作りの建物だった。元からあったトイレだけでは間に合わないので、仮設のトイレが何本も塹壕のように掘ってあった。昇平開拓団はこの収容所に全員入れた。教室の真ん中にドラム缶を置き一晩中火を燃やして暖をとっていたので、寒い時も過ごしやすかった。翌年の8月までここで暮らした。花園小学校でも大勢の人が亡くなった。私より3歳上の姉は学校を卒業してから団の診療所の看護婦見習いをしていた。
弟たちは中国人預けられた
春になる頃だったと思うが、外から帰ってみると下の弟2人がいなかった。聞いてみるとそばにいた姉が、母は私たちのいない間に弟の修たちを中国人に預けたと話してくれた。私らがいると反対するからいない間に預けたのだった。母に聞いても話してくれなかったが、ハルビンの南の田舎街、香坊の中国人に預けたとのことだった。香坊まで探しに行ってみたが、分らなかった。その頃、収容所では開拓団の子供たちが病気でどんどん亡くなっていた。寒さの中で食べ物はなく薬もなかった。私の場合、引揚げるときには開拓団の同学年で私が1人だけになっていた。多くの人が自分の子どもを守るため中国人に預けていた。弟達を預けたのは母の判断だった。
後に弟が帰国してから聞くと、弟は大事に育てられ、大学まで行かせてもらっていた。しかし、高校時代に残留孤児であることをクラスメイトから聞かされ、「小日本人」と言われ、いじめられ大変な目にあったが、それをバネにして大学へ合格した。しかし、在学中に二胡に夢中になったことや病気のため、大学を中退したらしい。
母は46年5月に亡くなった。まだその頃は寒く氷が張っていた。それまで寒い間に毎日大勢の人が亡くなり、外はカンカンに凍っていた。一つの教室が死体置き場になっていた。教室が一杯になると、炭焼きで木を立てるように並べた。思い出すのも恐ろしい光景だ。一杯になったら、馬車で郊外の墓地に運んでいた。私は行ったことはなかった。「連れて行ってくれ」と言ったが、子どもの「お前らが見るところとではない」と言われ、連れて行ってはくれなかった。穴を掘って大勢の人を入れて一杯なったら土をかけ埋めていたという悲惨なものだった。母が埋められたところも見ていない。
母が亡くなったのは37歳、父は3年前、同じく37歳だった。母は5月7日、父は3月7日だった。不思議に7のつく日が多く、すぐ下の弟は7月19日に死んだ。引揚げる1月前だった。団では全員が亡くなった家族もあった。原爆で全滅したよりはましといえば、生き残って帰ってきたのでましだが、大変だった。
引揚げ
帰る時、香坊に住んでいるはずの弟を訪ねて行ったが会わせてもらえなかった。その後の引揚げの時のことも良く覚えている。引揚途中に新京で私たちの貨物列車はしばらく止められ、一時避難所となった学校に入れられた。奉天でも止められたが、避難所には入らなかった。引揚げ船の中でも大勢死んだ。臭い貨物船は、牛の皮を運ぶ米軍の軍用船だと後で聞いた。船の底に入れられたので、揺れるたびに身体が転げた。それでも帰って来られた。
引揚げ船が着いたのは博多だった。ところが船の中で伝染病が発生し1か月ほど沖に停泊させられ上陸できなかった。看護婦の心得があった姉は病人に付きそい後から別の船で出発したが、佐世保に私より先に上陸していた。姉は親戚に私が帰ってくることを手紙で知らせてくれていた。同じ開拓団だったので、姉は先に出発した私らの事情を聞いたのだと思う。私が乗った引揚げ船が博多の港に着岸した時は、10月になっていた。頭から薬をかけられ上陸した。
伯母の住む西宮へ
父親の一番上の姉、伯母の住む西宮の家に帰ってきた。姉は西宮の県立病院で看護婦として働き、寮に住んだ。開拓団では事故や病気で亡くなる人があるので、私らの部落から本部へ行くまで間にある10m程の高さの丘の上に火葬場と墓を作っていた。父が開拓団の村で亡くなった時、火葬したので遺骨の一部を日本に送ることができた。伯母のところに父の遺骨を送り、一心寺に預けてもらっていた。
引き揚げて帰って来た時は高等科2年生、今でいえば、中学2年生だった。学校に行こう思えば次の年の3月まで行けたが、学校も焼け、戦後のどさくさで、バラックの仮校舎は出来てはいたが、行かなかった。伯母の家は本町のえべっさんの前で西宮の中心だったが、まわりはみんな焼けていた。その頃、軍隊にとられインドのインパールまで行っていた伯母の娘婿がビルマから帰ってきた。所属中隊は200人だったが帰った時には片手ほどの人数だったと言っていた。その人が、大工の仕事に戻ったので、従弟の弟子になった。伯母に世話になっている身で、他に道は無かった。
弟の消息
引き揚げてから、弟の修のことは義理の伯母の夫がその方面に詳しく熱心で、大阪府庁に問い合わせたりして調べてくれた。私が長男だったので役所から弟の「未帰還者の死亡宣告」届けを出すように言われたときには「絶対に出すな。後で復活させるのは手間がかかりたいへんだ」と言ってくれた。
その後、昇平開拓団の人たちから訪中調査団ができているとの話を聞いた。私は、当時仕事が忙しく、精一杯の生活だったので、一心寺の慰霊祭で近況など話は聞いていたが、皆さんにお願いするだけで、私には何もできなかった。1975年頃から80年の間だった。森さん、安藤さんという難民生活をしていた頃、年頃の女性で、中国人と結婚して残留婦人になった人がハルビンの香坊に住んでいた。その近くに弟の修が住んでいたので、森さんが近くに日本人の子供がいるから調べてくれと日本に問い合わせしてきていた。その森さんから大阪の開拓団の団体に問い合わせがあり、団体の西沢さんから私に「田中さんの家族ではないか」と連絡があった。そして森さんに手紙で問い合わせてくれた。そうすると弟達の状況が、私の知っていることと一致してきた。それから、本格的に調査し確認を進めた。
中国から弟の血液を送ってもらい、私の血液と両方を大阪の医大で検査し調べてもらった。そうすると、99.9%以上一致、0.2~0.3%の誤差で、弟に間違いないことが判明した。それから、帰国の手続きを始めた。調査の様子が大阪の新聞にも載り、その新聞を残留婦人が香坊に住んでいる弟に見せた。その後、弟から手紙が来たが、中国語で書いてあったので私にはわからなかった。中国語のできる昇平開拓団の安藤さんが堺に住んでいたので、私は弟から手紙が届くたびに読んでもらいに堺まで行き、弟の帰国の手続きを進めた。まずは一時帰国の手続きをした。
弟の帰国
修は一時帰国を果たした。そして「もしこの後、中国に帰ると、養父母の子どもは私だけなので、日本に永住帰国することに反対され、帰って来られなくなるかもしれない」と言った。そこで安藤さん達も中国に帰らないほうが良いというので、いっしょに一時帰国した男の子二人を一時帰国のまま、日本に残すことにした。そしてこの近くの時友(ときとも)というところの同じ建物の中に住まわすことにした。彼らも日本に住む勝手がわからないし、まだ子どもたちは15歳と17歳でまだ学校に行かなければならないので、私らがみることにした。その後、修は旭硝子に勤めた。子どもたちのことは尼崎市も良く世話をしてくれ、その後皆間違いなく成長してくれたので良かったと思う。
中国に残った年下の3人は母親といっしょに暮らし、養父母が亡くなってから日本に来た。子どもたち5人とも日本語を覚えるのは大変だったと思うが、若かったこともあり立派に成長してくれた。
(聞き手 田村 博志、石打謹也、宗景 正)