福知山市三岳、大中はつゑさんの生家の前で
大中さんが1年生まで通っていた三岳小学校(京都府福知山市)左側の溝堂(現体育館)は当時の建物が今も使われています。
京都府福知山市(旧天田郡)からは第一天田開拓団、第二天田開拓団の二つの開拓団が旧満州国三江省依蘭県に分郷開拓団として送出された。敗戦後の生還者126人、死亡者145人、残留者16人、不明者24人という悲惨な記録が残されている。「生還者の証言 満州天田郷建設史」より |
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一番くやしいのは好きな勉強が出来なかったこと
1945年、終戦の2ヵ月前、私は家族6人で満州三江省依蘭県に到着した。 中国人の家に住み自分たちの家を作ろうとした時終戦になり、馬車と船に乗って避難した。ハルビンに辿り着き、新香坊避難所に入った。そこで父はロシア軍に連れて行かれ、残った私たちは栄養失調で母、姉、弟の親子3人が死んだ 後に私ともう1人の姉だけが残った。姉は中国人の家に嫁に貰われ、私は中国人の家に引き取られて朝から晩まで豚7匹、鶏20匹の世話をするのが私の仕事でした。
養父母の機嫌が悪い時は私を殴ったり、痕が残るほど爪で顔をつねったりし、学校にも行かせてもらえませんでした。 私か一番悔しいのは勉強が出来なかったこと。私は日本で小学2年に入った時中国へ行ったので今でも1年生です。 最近日本語教室に入ったので人生が戻って2年生になりました。週2回の勉強が楽しいです。先生方の優しい笑顔と熱心に細かく教えてくれることが嬉しい。ここは私の命のもと、元気をもらいにきます。