琴子さん(右後)、母親の光子さん(左前)、尼崎市西難波町の自宅で、光子さんはヘルパーの支援を受けながらデイサービスを利用し、一人で暮らしている。琴子さんが週一回、夫の作った手料理を持ち、買い物などして訪問する。
岡本琴子さんは両親が日本人(母は中国残留婦人*)であるにもかかわらず帰国時には二世(父親は中国人とされていた)の身分であった。08年に裁判所に申請して後、国から中国残留孤児として認められ、支援が受けられるようになった。
*日本政府は中国に残留を余儀なくされた日本人のうち、敗戦時に12歳以下を中国残留孤児、13歳以上の女性を中国残留婦人として区別した。
|
大変だったけどいろいろ助けてくれる人がいた
私は、1944年12月末、大連で生まれた。終戦の頃、父が亡くなった。戦後、日本人が引揚げた時、私がよく泣くので、母は引き揚げに加わらなかった。寝る場所もなく、夜に私を背負って食べ物を探した。それを見て、若い中国人が、「子供がかわいそう」と、食べ物をくれた。何度も助けてくれたので、母はその人と人目につかない大連の田舎へ行き結婚し、家から外に出ないようにして暮らした。
義父は山東省生まれ、18歳で大連に出てきた。人の悪□を言ったり、叩いたりしない優しい良い人だった。私が6歳の時、妹が生まれ、その後、弟3人、妹1人が生まれた。
弟たちは体が弱かったので、中国語が分かるようになった私は母親に代わって弟たちの世話をした。総合大学で在学中に弟が長期入院したため中退した。この時、母の日本人の友人が困っていた私の家族に入院費を出してくれた。
72年日中の国交が回復し、母は日本の警察(出生地の大阪)に手紙を出し、家族の消息が分かった。手続きに2年以上かかったが、75年やっと帰国の望みが叶った。当時、私は大連水産公司の船長の夫と結婚していたので「結婚してなかったら、一緒に帰れたのに」と悔やんだこともあったが、夫の両親が亡くなった後、91年に帰国し、夫と息子と3人で母のいる尼崎へ来た。こちらでは言葉が分からず、仕事もなかった。95年には阪神淡路大震災の時、左膝を骨折、足首も傷めた。
現在、息子は39歳、大阪で溶接の仕事をしている。頼もしい孫たち(高一女、中三女)は自転車を飛ばして私たち夫婦の家にやって来る。もっと話ができるように、日本語の勉強をしたいと思っている。