宮島満子さん |
開拓団として満州へ
宮島さんは3歳の時、家族で長野県から第6次南五道崗長野村開拓団として東安省密山県に入植した。生活にも恵まれ、学校へ行くのはとても楽しみだったという。ところが、1945年、宮島さんが三年生の夏だった。ソ連軍の侵攻により地獄の逃避行が始まった。難民となり瀋陽まで辿り着いた。飢えと寒さの厳しい難民生活の中、両親と兄弟姉妹の8人を亡くし、中国人養父母にもらわれ、二人の兄たちとも生き別れた。
中国で暮らす
女の子のいなかった養父母は宮島さんを優しく育ててくれた。13歳で学校に行き始めたが日本人と知られ苛められて通学できなくなった。
19歳で結婚、4人の子供をもうけた。日本と中国の国交が回復したことを知り、73年、知人に教えてもらって北京の日本大使館に肉親探しの書類を出した。すぐに二人の兄が日本に帰っていたことが判り、兄が一時帰国を勧めてくれた。
帰国へのみちのり
75年、3人の子供を連れて日本へ帰り半年間滞在した。83年、自費で再び帰国し永住帰国の希望を兄に伝えたが、兄は日本での生活の厳しさを言い、保証人になってはもらえなかった。宮島さんは仕方なく、先に帰国していた神戸の友人を訪ねた。そこで中国に帰るまでのビザがある間働くことを勧められ、有馬温泉のホテルで住み込み、日本人といっしょに働いた。「あなたのようによく働く人はいない」とホテルの支配人が身元保証人になってくれることになり、85年5月20日。家族5人、自費で日本に帰国した。神戸で夫と住み込みで働き、その後、尼崎に移り、市内の食肉加工会社で働いた。宮島さんは、働きながら次第に日本語を取り戻していった。
仕事の世話をする
この頃、尼崎や伊丹にも多くの残留孤児たちが帰国した。だが仕事もなく生活に困っている孤児は少なくなかった。宮島さんは自分が勤める会社の社長に孤児たちの雇用や身元保証人を頼んだ。そして帰国したい残留日本人のために社長といっしょに瀋陽まで出かけたという。宮島さんの活躍で日本で暮らせるようになった人は大勢いる。
裁判に参加、通訳も
2002年12月、東京で中国残留日本人孤児国家賠償請求訴訟が起こされ、兵庫でも04年3月神戸地裁に提訴された。宮島さんは長野県出身の残留孤児から誘われ、原告になった。
原告の多くは日本語ができないので日本語ができる宮島さんが通訳を引き受けた。宝塚や伊丹をはじめ、神戸までも弁護士さんと一緒に20人ほど家を訪ねて通訳し、陳述書作成に協力した。デモや署名活動にも参加し、さらにマスコミに日本語で原告の気持ちや考えを伝える役割も担った。06年12月1日、ついに神戸地裁で勝訴判決を勝ち取った。この日が誕生日だった宮島さんにとって一生忘れる事のできない最高の日となった。
母の思い出
日本に永住帰国した宮島さんは4年後の89年かつて同じ開拓団だった人たちと東安省密山県の開拓団の村を訪問し、住んでいた家や3年生まで通った学校を訪ねた。宮島さんの家族が住んでいた家には陸さんという中国人が住んでいた。その家には宮島さんの家族が使っていた箪笥があった。そのまま使われていたのである。この箪笥は母の嫁入り道具で宮島さんにとっては母同然の懐かしく大切な品であった。優しく強い母の思い出と、当時大勢の家族が賑やかに暮らしていた頃のことを思い出し懐かしかった。
勉強はまだまだ
95年、宮島さんは「祖国の言葉を取り戻し、立派な日本人になりたい」と尼崎市立成良中学校琴城分校(夜間中学)に入学。その後受験をして尼崎市立城内高等学校(定時制高校)にも通い、人一倍日本語の勉強をした。02年には高校を卒業し、とても流暢に日本語を話す宮島さんだが、「勉強しないと言葉は忘れる」と、現在もコスモスの会尼崎日本語教室に参加している。