重光洋子さん、自宅の居間で
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梅グループの重光洋子さんを紹介します。重光さんは1944年生まれ、中国残留孤児(重光孝昭さん)の配偶者です。
問: 日本に来られたのはいつですか?
答: 84年7月6日。夫と当時中学生と小学生の3人の子どもと一緒でした。
問: 日本に来た時の生活は?
答: 日本語がわからずつらかった。生活保護は恥ずかしいことと言われ、すぐに働き始めた。このとき会社で、昼になり、職場の人が「めし、めし」と言った。何のことかわからなかった。言葉は分からなかったが、子供のために必死で働いた。
問: ご主人とはどこで知り合いましたか?
答: 中国で同じ職場だった。夫は会社の設計技師だった。
問: 日本人であるご主人との結婚に反対はありましたか?
答: 少しあった。それ以上に夫が気に入っていた。
問: 日本ではどのような仕事をしましたか?
答: 日本に来て2年間は「日本硝子」で瓶の箱入れ。そのあと20年間「リネンサービス会社」。
問: 今の生活はどうですか?
答: 義母、義叔母(夫の母とその妹)が近くにおり、やさしい。言葉や生活で時々助けてくれる。また、昔の会社の人が近くにいて話し相手になっている。それがうれしい。
問: いままで一番つらかったことは?
答: 言葉がわからないこと。
問: 楽しかったことは?
答: 旅行がいい思い出。「信州の木曽路」が古い日本を見れて良かった。これからも多く旅行したい。それが夢。
問: 日本語はどこで学びましたか?
答: 日本にきたとき所沢センターで4ヶ月学んだ。ぜんぜんわからなかった。その後、学ぶ機会が無く、この尼崎日本語教室がはじめてです。
問: 日本語教室の感想は?
答: 先生が優しく、来るのが楽しい。
問: これからの目標は?
答: 今取り組んでいるのは毎朝1時間の散歩、ずっと健康でいたい。
40歳で日本に来てはや30年。その間、日本語での苦労もありましたが、また多くの人との出会いもありました。これからも好きな旅行を楽しみ、健康にも留意して一日一日を大切にすごしたいと語る洋子さんです。