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みちのり

みちのり シリーズ I

江田 秋子(エダ アキコ)さん 1945年10月中国遼寧省丹東市生まれ 伊丹市在住
中国名 李蘭秋



江田秋子さん 尼崎市中央公民館で
学ぶことが生きる希望と力になって!

 中国と北朝鮮との国境を流れる鴨緑江、かつて多くの日本人はこの大河の鉄橋を通り満州に移住した。江田秋子さんはこの鉄橋のある安東(現:丹東市)で日本人の子供として終戦の年の秋(10月)に生まれた。当時この町には日本人が多く住んでいた。敗戦の民である彼等は生き長らえることさえ難しかった。子供の命をつなぐために秋子さんの親は子供を中国人に託すほかなかった。

「お前は私の子だよ !」
 翌年1946年の春、子供のない養父母にもらわれた。乳の出ない養母は乳母となってくれる人を探しまわり育ててくれたと言う。そして豊かでない暮らしのなか、学校へも行かせてくれたので勉強が好きな子供に育った。近所の子供たちに「日本人の鬼子」と苛められた時には、「おまえは私の子だよ!」と抱きしめて守ってくれた。

ひとりでもがんばって生きていく
 10歳の時に優しい養母が亡くなり、さらに4年後には、養父も亡くなり、14歳で一人ぼっちになった。とても辛く悲しかった。だがこの時「ひとりでもがんばって生きていく」と深く心に決めた、昼は学校へ行き、夜はお金を稼ぐため手袋作りをと頑張った。しかし生きていくためにはもっと働かなくてはならなかった。中学2年生を終えると退学し家具作りの会社に勤め始めた。18歳の時、職場の先輩が引き合わせてくれた徳華さんと出会う。おおらかで良い人だが子供っぽいと思った。6年後(1970年)に結婚し2人の男の子を生み、働きながら育てた。

李蘭秋から江田秋子へ
 日中国交が回復して帰国がはじまった。迷った末、1986年親子4人で永住帰国した。一時、所沢市帰国者センターに入った。就籍の手続きの際、中国名の李蘭秋から姓は勧めらた江田に、名は秋子にしてもらった。それは「蘭秋」として育ててくれた「養母」と終戦の秋に生んでくれた「実母」二人のお母さんを忘れないため。
しかし祖国は名ばかりの支援の後、日本語も話せないままに現実社会に放り出し、困難な生活が始まった。仕事と家事に追われながらも日本語を猛勉強した。子供たちにも学ぶことの大切さを教え、生活を切り詰めて教育を受けさせた。だんだんと話せるようになると近所の人とも親しくなれた。そして今では息子のお嫁さん(日本人)やその両親とも仲がよく、お正月には沢山の中国料理でもてなすのが楽しみとのこと。孫の保育に忙しいなか日本語と中国語の学習は今も続けている。そして孫に中国語を教えている。

「勉強することは自分をたすけること、幸せになれること」
 秋子さんの信念であり、生き方だ。それは子供たち孫たちへと受け継がれている。逆境の歴史の中で生まれ育ちながら、その苦労をにじませないでいつも笑顔の秋子さんは「大和撫子」であり「芯の通った強い女性」である。
最後に「尼崎日本語教室が好き、先生みんな優しいよ」と言ってくれた。
わたしは胸が熱くなった。



(聞き手 吉村清美)このページの先頭へ

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