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コスモスの会は中国残留日本人を支援する団体です。

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みちのり

みちのり シリーズ G

重光孝昭(シゲミツ タカアキ)さん 1939年鹿児島県奄美大島生まれ 兵庫県尼崎市在住
中国名・申樹林

重光孝昭さん、自宅で


命を救ってくれた養父母と優しかった叔母に感謝

 当時、家族は奄美大島では仕事がないため神戸に出稼ぎに来ていた。1942年(重光さんが3歳の時)、「満州へ行ったら生活しやすい」と、親戚と共に神戸から奄美大島宇検村開拓団に加わり、中国吉林省敦化県に入植した。しかし、44年母親の身体が弱ったため離農し、安東に移り、父親は会社に勤めた。45年2月、弟が病気で亡くなり、5月には父が徴兵された。(行方は分かっていない)その後、母は妹を出産したが、妹も母も亡くなった。一人ぼっちになった重光さんは叔母に連れられ敦化に戻った。

瀋陽で残留孤児に
 そして8月、敗戦の混乱の中、重光さんは叔母と奉天まで逃げ収容所に入った。叔母(当時18歳)が収容所から住み込みで働きに出て留守だった時、煙草売りをしていた人のとりなしで、子供のいなかった養父母が重光さんを引き取った。当時、養父母は文房具製造会社を持ち、文房具屋と本屋も営んでいた。
 仕事から帰った叔母は重光さんをあちこち探した。そして文房具屋の前のゴミ箱の中に重光さんが難民所で着ていた着物を見つけ、「無事だ!」と思った。叔母はそれで引揚げる決心がついたとのことだった。
 重光さんは養父の母と養父母の四人で暮らした。情愛の深い家庭で、寂しくなかった。重光さんは高校を卒業した後、アルミ製品製造会社に就職し、67年に同じ会社に勤めていた洋子さんと結婚した。文革後、設計技師になった。

文化大革命は辛かった
 重光さんが一番辛かったのは66年に始まった文化大革命時代、特に運動の最盛期の67年68年だった。職場では「平頂山万人坑」など日本人の「罪」の現場を見に行かされる思想教育が行われた。その教育を受けてから上司や仲間の重光さんを見る眼付や態度が前と違った。「戦争犯罪人の息子、日本のスパイがいる」と壁新聞に書かれ、思想改造学習班に入れられた。重光さんはどんなに尽くしても「信用できない人」としか見られなくなった。
 72年、日中の国交が正常化した。養母は「文革のような辛い時代がまたいつ来るか分からない。子供の将来のために日本に帰ってもいいよ」と言ってくれた。そして、重光さんの身元確認の請願書を、日本に帰る残留婦人に託し、厚生省に届けてもらった。その頃、日本では叔母が離別した時の事柄を書いた調査願いを厚生省に出していた。

訪日調査第一号に
 重光さんは82年訪日調査に参加し、2月に羽田で叔母と対面。肉親判明第一号になった。 同じ年6月に、叔母夫婦が中国を訪ね、養父母に感謝の礼をした。

尼崎市長が面会に
 その後、叔母夫婦が住む尼崎市の野草平十郎市長が姉妹都市鞍山市を訪問する際、瀋陽に立ち寄り、重光さん家族をヤマトホテルに招き、家族を労い、養父母に謝意を表してくれた。
 84年7月、子供3人と帰国。保証人になった叔母が、当面の衣食住全ての世話をしてくれた。職業安定所の面接に行くことや子供の保護者として学校に出かけることにも協力してくれた。

私も役立ちたい
 「今、子供のことは心配ない。命を救い育ててくれた養父母に感謝している。そして安定した生活ができる制度を作ってくれた支援者と日本政府に感謝している。これからは中国人と日本人がお互いに理解しあえるようになってほしい。私もそのために役立ちたいと思う」と重光さんは述べた。


(聞き手 藤田順子)このページの先頭へ

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