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みちのり

みちのり シリーズ C

昌谷範茂(マサヤ ノリシゲ)さん 1939年鹿児島県奄美大島生まれ 兵庫県尼崎市在住










昌谷さんと妻の桂子さん、尼崎市中央公民館前で



帰国して一番つらかったのは、
家族を連れて中国に帰れといわれたこと


 1941年、昌谷さんが2歳の時、両親、兄二人、姉三人と共に、奄美大島から三江省方正県伊漢通の開拓団に入り、後に妹が生まれた。
 44年6月、5歳の時、実父と長兄は軍隊に召集され、敗戦後はシベリアに抑留された。その年、妹が亡くなった。
 46年秋ごろ、母と姉二人、次兄とで新立屯の養牛場で働いていたが、満足に食べられなかったため、母は、昌谷さんを養子に出した。

養父母に引き取られて
 昌谷さんは、中国語を話すようになり、次第に日本語を忘れていった。10歳で小学校に入学した。この年、他の子どもたちを連れて中国人と再婚していた母は、先妻の息子夫婦と折り合いが悪く自殺した。三人の姉たちはそれぞれ中国で結婚したが、寒さと貧しい医療状況の中、20代で次々に亡くなった。次兄は養子になったがその生活は苦しく、朝早くから何十頭もの牛の世話に追われ、それが終わると家の手伝いをする毎日で、学校に通えなかった。
 昌谷さんは小学校卒業後、2年間は家業の農漁業を手伝った。19歳の時、醸造工場に就職し、日本に帰国するまで18年間勤めた。学校でも職場でも「小日本鬼子」と呼ばれ、いじめられた。そんな中でも、62年に一緒に働いていた中国人に見込まれ、桂子さんと結婚した。

身元が判明
 73年頃、次兄が「日本へ帰りたい!」と思って調べてもらったところ本籍などの身元が判明した。長兄がシベリアから帰還して尼崎にいることも分かった。
 76年8月、次兄が長兄を頼って帰国した。昌谷さんも帰りたいと思った。

帰国、日本での生活
 妻の親戚は、日本に行くことに反対したが、長男が血友病だったので、妻はその治療には日本の方が良いと考えた。次女が一歳になるのを待って、 76年12月に一家で帰国した。長女 12 歳、長男9歳、次男4歳だった。
 昌谷さんは、帰国してから6か月間、大阪で日曜日毎に2時間日本語を勉強した。しかし、6か月位の勉強では日本語は身につかず、そのため職場ではいじめられ、血圧が上がり,半年ほど休んだ。78年に職業安定所で見つけた会社に就職し、定年退職するまで20年間勤めた。
 妻は、長男を自転車に乗せ、週2回通院させた。次女が小学校に入学してから、パートで定年まで働いた。子どもたちは今、それぞれ家庭を持ち、孫は12人いる。 

国家賠償請求訴訟に参加
 昌谷さんは帰国後働いた期間が短いため、わずかな年金での生活に不安が募り、裁判に加わった。その時、帰国して一番辛かったことは日本人とトラブルになった時に「家族を連れて中国へ帰れ」と言われたことと訴えていた。
 06年の神戸地裁で勝訴した時は、「人権と尊厳が回復される」と喜んだ。08年から中国残留邦人支援策が始まり、尼崎日本語教室ができた。開設当初から夫婦で通い、楽しく日本語を学んでいる。


(藤田順子)このページの先頭へ

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