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コスモスの会は中国残留日本人を支援する団体です。

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みちのり

みちのり シリーズ ⑨

田牧 武司(タマキ タケシ)さん 1941年 宮城県丸森町生まれ 兵庫県尼崎市在住

田牧 武司さん、尼崎日本語教室で

父は召集されシベリアへ、母は幼い4人の子供を連れて逃避行、生き延びた2人と中国人の家庭へ


3年前、尼崎教室へ

 バラ組で学習に励んでおられるいつも明るく愛くるしい笑顔の田牧武司さん。田牧さんはコスモスの会の日本語教室だけでなく夜間中学校やYWCAにも通うなど、日本語学習にとても熱心だ。

開拓団として満州へ
 41年12月25日宮城県丸森町に生まれた田牧さんは、拉林開拓団として家族で北安省慶安(現・黒龍江省)へ入植した。終戦直前に父は根こそぎ動員で召集されてしまった。(その後シベリアに6年間抑留、のち日本へ帰国した。)残された母は4人の子どもをかかえてソ連兵から必死で逃げた。その途中で田牧さんの弟はどこかへ預けられたのか行方不明、妹は発疹ができ収容所で亡くなった。

母は子供の命を守るため中国人と結婚
 田牧さんはそのころのことを次のように記憶している。「食べ物がないので、こっそりと畑に行き、トウモロコシを生のままかじった。大雨が降っていた」。母は幼い2人の子どもを何とか生き延びさせるために、慶安に戻り中国人と結婚した。そこは地主の家だったので、経済的には裕福だったが、とても厳しくしつけられた。
当時、ソ連兵が日本人を探しだすために各家を回って検閲していたので、家の中でも決して日本語をしゃべらないように言われていた。もちろん学校へも行けず、12歳まで家畜の世話をした。新しい家に来て半年ほどでなんとか中国語は話せるようになり、筆談でしか義父とコミュニケーションがとれない母のために通訳をした。

12歳で小学校へ
 中国共産党が提唱した「扫盲运动」(文盲をなくす運動)の中で」52年に労働者、農民に識字を促し、学齢者は入学させる措置がとられ、12歳になった田牧さんはやっと小学校1年生として学校へ通った。入学したのは半年遅れだったので初めは授業がさっぱりわからず苦労したという。

地主出身や日本人は いじめられた
 6年間の小学校を終え中学校へ上がったが、ちょうど中国大飢饉で食べ物がなく、学費や寄宿舎代がかかるので中学1年生でやめさせられた。実は51年には土地改革で義父は財産をとりあげられていた。元地主だった者の中には、磔にされ、鞭で打たれた者もいた。子どもの間でも、特に日本人ということで田牧さんはいじめられた。学校をやめてから人民公社で働き大豆、トウモロコシ、粟、コーリャン、野菜などをつくった。
62、63年には飢きんで食べるものに困ったこともあったが、66年に知人の紹介で結婚し、5人の子どもが生まれた。

97年に永住帰国
 76年に一時帰国したが、永住帰国したのは97年11月。帰国後は仙台に定住していたが、かの東日本大震災で被害を受け、2013年に尼崎へ移り住んだ。
そして尼崎市支援相談員である韓さんの力添えで、ここコスモスの会尼崎日本語教室で学び始めた。学習に対してとても意欲的で、大きな声で発表する姿はあどけない小学生のようでもあり、周りの人々を和ませてくれる。田牧さんの兄は1日も学校に行っておらず読み書きができない。そんな兄のことを心配しながらも、自らを励まし努力している田牧さんに、敬意と愛情をささげたい。
                                           


(聞き手 田中いずみ)このページの先頭へ

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