本文へスキップ

コスモスの会は中国残留日本人を支援する団体です。

電話でお問い合わせはTEL.090-7366-5915

〒661-0953 兵庫県尼崎市東園田町4丁目
               152-16

みちのり

みちのり シリーズ E

箟 和雄(ヤノ カズオ)さん 1941年兵庫県伊丹市生まれ 同市在住
中国名・王 志山


スタッフの問いかけに身振りを交えて答える
箟 和雄さん (バラグループ教室で)


祖国での仕事は誇りと生きがいを奪った

 寒くて、寒くて仕方がなかった。その時、誰かに着せてもらった上着の、あの何とも言えない暖かさだけは、今でもはっきりと覚えている。それが、残留孤児としての生活の始まりだった。 もの心がついた時には「王 志山」として、養父母、11歳上の姉と黒龍江省海林県海南郷北拉古で暮らしていた。のちに妹が生まれ、家族5人裕福ではないが仲良く生活していた。自分は日本人の子どもだとわかっていたが、名前や実の親の顔さえ、記憶もなければ知るすべもなかった。 

農業の達人
 志山少年は、体の弱かった養父を助けて、小さい頃からよく農場の仕事を手伝った。小学校卒業後、糧農として本格的に大豆・米・とうもろこし・小麦等を作った。種まきのタイミングや除草剤の用い方などは特に難しく、経験と努力と工夫を積み重ねた。82年頃、所属していた人民公社が解体され、約1・5畝の土地が配分されると、耕運機を導入してますます仕事に精を出した。隣接している他の家の田畑と比べて、自分の農地にはひときわ実りの多いことが楽しみであり誇りでもあった。

父との再会
 日中国交回復後、志山青年は日本への想いを強くした。日本に帰りたかった。父に会いたかったし、4人の子ども達の将来も日本ならきっと明るいものに違いないと思った。84年にようやく第6次訪日集団調査に参加できた。左手首の大きなあざと、2歳の時に受けたヘルニアの手術痕で、身元が判明。父に再会することができ、自分が「箟 和雄」であることを初めて知った。

母に連れられ満州へ
 41年10月12日、伊丹市で生まれた箟さんは、すぐに母に連れられて父の待つ満州に渡った。45年父は軍隊に応召、本土防衛のため日本へ戻され、そのまま終戦を迎えた。満州に残された母と3歳だった箟さんは、ソ連の侵攻から逃げる途中ソ連軍に取り囲まれた。身重だった母は井戸に身を投げて命を絶ったが、箟さんはかろうじて逃げ延び、難民収容所付近で養父に拾われた。養父母は、多くの日本人難民が餓死し、凍死するのを目の当たりにし、幼い箟さんを引き取ってくれたのだった。

帰国はしたが
 85年5月、戦時死亡宣告によって抹消されていた箟さんの戸籍が、戸籍訂正許可の裁判確定により復活した。90年3月、亡母の弟が保証人になってくれ、ようやく永住帰国することができた。だが、日本語や日本の生活の習得はわずか1年余りで不十分なまま、吹田市のJR機関車の清掃作業に就いた。長い通勤時間と過酷な労働で体をこわし、1年ほどでやめざるを得なかった。その後布地を作る会社に勤めたが、阪神淡路大震災で倒産。それからは地下鉄の清掃や化学工場の臨時工として働いた。言葉がわからず、仕事は単純作業ばかりで、賃金も少なく、非常に苦しい生活を強いられた。夢にまで見た祖国での生活は、あまりにも残酷な現実だった。

バラグループで学習
 現在、箟さんは、バラグループで勉強をしている。物静かで控えめではあるが、討論形式の学習でも、ややこしい文型の学習でも、いつも積極的だ。そこには、これまで何事にも真面目に取り組んできたことへの静かな自信があふれている。 和食の中では、白いご飯のおにぎりが一番好きだという箟さん。「緑茶はおいてない」とご自宅であたたかい中国茶(ジャスミンティー)をいれてくれたその笑顔の中に、長かった中国での生活がにじんでいた。 

                                            


(聞き手 田中いずみ)このページの先頭へ

コスモスの会ビルダークリニック

〒661-0953
兵庫県尼崎市東園田町4丁目152-16

TEL
090-7366-5915
FAX
06-6493-0817