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コスモスの会は中国残留日本人を支援する団体です。

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みちのり

みちのり シリーズ B

下平朋好(シモダイラ トモヨシ)さん 1932年長野県下伊那郡生まれ 兵庫県尼崎市在住












自宅の居間でくつろぐ下平さん

 長野県から送出された開拓団の人数は義勇隊開拓団を含め33,743人1)全国から送り出された開拓団約32万1千人2)の約10分の1に相当する。また下平朋好さんの家族が所属した南五道崗長野村開拓団では入植者は292戸1,372人、その内、死亡・未帰還者は約980人3)(生還者は約29%)で、残留孤児となった下平さんが証言している悲惨な状態が想像できる。

1)井出孫六著「中国残留邦人」岩波新書
2)満州開拓史刊行会編「満州開拓史」3)長野県満州開拓誌上巻























一番聞きたくないのは、日本がしたことを
誤って伝えること、戦争はだめ!

 6歳の時、長野県から父母と弟の4人で南五道崗長野村開拓団としてロシア国境に近い東安省(現黒龍江省)密山県に入植した。そこで開拓団の小学校に入学した。
13歳の時、終戦間際の8月10日頃、夜明け前に、突然、大勢の開拓団の人たちが列をなして逃げた。途中、平原でソ連軍の飛行機に襲われた。隠れる場所はなく、たくさんの人が爆弾で焼かれ、機銃に撃たれて死んだ。団長が残っている人を集め、10人で、牡丹江の街まで1週間歩いていった。そこでソ連軍に囲まれて、貨物列車に乗せられ、ハルピン、長春、奉天を経由し、難民所に着いた。

奉天(瀋陽)の難民所
 10月か11月だったろうか、外は雪が降っていた。沢山の人がいたが、冷たいコンクリートの床の上に、粟の茎で編んだボロボロのむしろを敷いて過ごすしかなかった。初めは皮のままふかしたコーリャンをもらって食べていたが、ほどなく何ももらえなくなった。両親はあまり食べずに子供に分けてくれた。水も食べ物もなく、中国で生まれた4歳の弟が死んだ。その一週間後母が死に、父も死んだ。

残留孤児となって
 残った私と下の弟は、中国人が紹介して別々の養父母に連れられていった。養父母は大切に育ててくれたので元気になった。家ではいじめられなかったが、外では石を投げられたり叩かれたりした。それで学校に行かず、瀋陽で家の商売を手伝った。
 18歳の頃、解放軍が入ってきて、弟の消息を調べてくれて、会うことができた。

夜間学校で中国語
 23歳のころから鉄工所で働いた。そこで夜間学校に通って中国語を学んだ。給料は安かった。それから結婚して3人の子供を育てた。77年、45歳の時、一時帰国できた。すぐに永住帰国したかったが、身元保証人が見つからず、 13年後の90年にやっと果たせた。尼崎で、58歳からの生活も厳しかった。

心配なことも
 現在80歳、ここ日本語教室に来て大勢に会って、勉強する。それが一番楽しみ。最近、忘れるばっかり。でも、この頃日中関係が損なわれるような話を聞くと、子供の頃のことが思い出されて心配になる。





(藤田順子)このページの先頭へ

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