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コスモスの会は中国残留日本人を支援する団体です。

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みちのり

みちのり シリーズ M

芦川 常恵 (アシカワ ツネエ)さん 1941年中国北京生まれ 西宮市在住



芦川常恵さん
四季によせて

【春】
 私、芦川常恵は、1941年に中国北京で生まれました。父の芦川駿逸は1874年和歌山に生まれ、成人し04年中国に渡り、革命運動にも参加していたそうです。晩年は満州国の建立にも携わり、清朝王公一族の財産整理委員会の顧問を務めていましたが、43年私が2歳の頃に病で亡くなりました。母は中国人で、富雪琴と言い、現地で知り合い再婚したそうです。私には兄がおり、生まれも育ちも中国の私たちですが、父が亡くなった事で、それまでの生活が180度ひっくり返りました。父が私たち兄妹の為に残してくれた貯えも戦争の只中の事もあり、敗戦の頃には底をつき、母は兄と2人で家で近所の洗濯などを引き受けて私たちを育ててくれました。私は毎朝、市場に500gの玉蜀黍粉を買いに行き、それを蒸して食べるのが家族の食事の全てでした。
私が16歳の時に母も他界し、兄妹2人きりになりましたが、兄は母の手伝いをしていたので仕事を続け、私は母の姉に引き取られて生活することになりました。伯母には子供がなく、優しい人で随分と可愛がっていただきました。

【夏】
 
北京で住んでいた頃の芦川さんの作品
 小学校を終え、中学に入った頃の私は文章力がなく、作文は大の苦手で、宿題などは殆ど兄に頼っていました。絵の宿題等も同様で、これからどうなるのという状況でしたが、スポーツは得意で、北京の中学校の体操競技試合では全体の6位を取る事ができました。今も大切な思い出として心に残っています。そして奨学金制度のお陰で中学から大学卒業【北京大学医学部薬学院】まで、難なく過ごすことができました。大学生の時後の私に大きな影響を与えた趣味が生まれました。当時、香港からの同窓生の女子が私の競技姿を撮ってくれて、カメラにとても興味を持ちました。その時の写真の出来映えは満足に映っているものは2枚程しかなく、不満が残りました。私は将来カメラを買える時がきたら自分でも色々な景色や人物を撮ってみたいと切望しました。
大学を卒業し製薬会社に入社、製剤現場で技術責任者として働き、友人に紹介された男性と結婚。主人46歳、私32歳でした。暖かい人で中国科学院心理学の教授でした。何年か後、主人が出張中に体を壊し、杭州病院に入院した時は慌てて病院に駆けつけました。退院して2人で舟山諸島の聖地という普陀山へハイキングに行く事になり、念願のカメラを買いましたが、慣れない為フィルムの入れ方が悪かったのか、その時の写真は全滅でとてもガッカリしました。それ以来主人は懲りたのか、撮影は私の専門になり、小さいカメラでしたが、撮影にも慣れ、のめり込みました。90年代初め、私が豪州に1ヶ月程出張する事になり、兄がミノルタのカメラを譲ってくれ、その後も、一眼レフやビデオカメラもくれましたが、説明書が日本語の為、使い方がよく判らず友人に聞いてもダメで、一念発起し一語一語辞書を引き、取扱説明書を中国語に翻訳し、各機能を全部試して納得するのになんと1ヶ月もかかりました。それからは水を得た魚のよう、何処に行くにもカメラとビデオ持参で、自称カメラマンに徹して写真を撮り続けました。

【秋】

 95年1月17日阪神淡路大震災が起き、私は日本に思いを馳せるようになりました。その未曽有の大災害に対し日本人が堅忍不抜の精神を発揮し、助け合い、復興に向けて頑張っている事をニュース等で知り、日本にまだ見たことのない私の母国へ帰りたいと願うようになりました。それより何年か前にも日本へ帰ろうかと主人と相談しましたが、時期を見ようと言われ諦めた事がありました。実は主人は私と結婚する前、文化大革命の最中に元の奥さんと自殺を図りましたが、主人は助かり、そんな過去の事もあり私は同情心を持って主人の意思を尊重し、帰国の事を棚上げにしていました。

【冬】

 2008年67歳の時やっと帰国する事ができました。93年3月頃に既に帰国していた兄の家に娘と2人で3ヶ月程の予定で訪日しましたが、主人が入院との知らせで急遽中国へ帰りました。でも主人は介護の甲斐もなく5ヶ月程で亡くなり、とても辛い日々を過ごしました。
 その後08年に帰国する決心をし、日本に帰る事が出来ました。西宮浜の住宅に落ち着いて考えた事は、先ずマナー・ルール・習慣等、覚えるべき事が沢山あり、日本社会で生きる為に日本語の勉強は必須だと痛感しました。ご近所の皆さんの話している言葉が理解出来ず打ち解けるのに随分時間がかかりました。よく中国人と誤解され、帰国して1ヶ月程で大阪西九条の日本語交流サロンに参加し、その後YWCAの日本語教室にも参加し、毎日14時間程勉強しました。そして18年コスモスの会に参加して健康の会で沢山の友達も出来、今は毎日朝を迎えるのが楽しみです。一方まだまだ流暢な日本語は喋れませんが、人生にサヨナラする日まで頑張って皆さんとのかかわりを大切にし、楽しい時を過ごしていきたいと思っています。


(聞き手 雲北伸子)このページの先頭へ

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